上本通り名称の由来(沼津市HP資料より)


城下町の発展
 沼津城の武家屋敷は、北の堀から西の堀にそって建てられ、上級武士の屋敷ほど城の近くにあって、下級武士になるにしたがって,西へ添地・西条と続いていた。堀に面した武家屋敷は片側だけの屋敷町であったので、片端町とよばれていた。
 武士が居住することによって城下町は発展し、いわゆる消費都市としての性格がますます強くなった。このことは周辺の農漁村との間に商取引の役割を強くし、商業都市へと発展する動機もつくられたといえる。宿場町時代の中心は本町であったが、城下町時代になると上土町にも呉服や日用品を売る店がつくられていった。それによって、片端・添地と本町の間にもしだいに町家がつくられ、八幡町・大門町などの町が発展した。
 このように沼津は、港町・宿場町としてつくられ、のちに城下町の性格が加えられた町である。

大正二年の沼津大火で沼津町は全焼し

その後の区画整理で道路が付け替えられ、本通りが町方町を貫通して片端の道路に接続し、拡幅道路が設けられました。
 これが上本通りで、この道路沿いの地域を上本通り町と称しました。

 上本通町(かみほんどおりまち)

 江戸時代後期には、沼津城の西側及び北側の外堀に沿って、沼津藩水野家の侍屋敷が並んでいた。屋敷町の一方は堀端になっていて、片側しか人家がない通りであったから片端(かたは)と称された。

明治五年(一八七二)沼津城が解体され、同二十二年(一八入九)東海道本線が開通し、沼津駅が城の北側に設けられてからは、しだいに堀は埋められていった。大正二年(一九一三)の大火で、この地域一帯も灰燼に帰し、大火後の区画整理で道路改正が行われ、本通りが町方町を貫通して片端の道路に接続し、拡幅道路が設けられた。片端から上本通りと称されたのである。この地は、もと大字城内の一部と大字上土の一部であった。昭和七年(一九三二)に道路沿いの地域を町方の本通りの上なので、上本通町と称し町名となった。

昭和五十五年、沼津市住居表示整備事業により大手町三丁目、昭和五十七年大手町四丁目と表示された。自治会名と商店街名に上本通りがのこされている。

大正2年大火後の区画整理事業経緯

御料地下賜

 この大正2年大火の結果、今日のわれわれにとって注目されることは町の基本財産として御料地(皇室の財産であったが、太平洋戦争後の改革によって国有財産にきりかえられたもの)の一部が、下賜されたことである。

それは、「城内字条内町五百三十番地ノ一外三十筆」「反別一町七畝二十一歩」であるが、これは旧沼津城の土手敷地をさしている。明治初年の大変革に当って、旧封建領主の財産の一部がそのまま皇室領に編入されてきていたものであった。

この下賜に当つては、大正二年五月二十五日付で、沼津町長職務管掌の静岡県属飯塚留三が、御料局長宛に御料地恩賜願を提出している。そしてその願が聞届けられた旨の達は、同年十月二十日静岡県知事笠井信一から沼津町宛に達せられた。その五月付の願をみれば、町当局が市中の道路の改良を企図していたことが明瞭である。

 市区改正事業

 この市区改正事業は、駿東郡誌の記載によれば、二期に分れて実施された。すなわち、第一期は大正三年九月に起工し、翌四年一月にでき上り、第二期工事は大正三年十二月に起工し、翌四年に完成した。